いつもご覧いただきありがとうございます。
いよいよ2015年も終盤に差し掛かり、みなさまも仕事に、家事にイベント等でお忙しいことかと存じます。
先日も早朝よりお客様のお車の回送に出かけたのですが、
津山名物 もや〜(放射霧)!!!
マジ前見えねぇ〜!!
何かの映画であったような・・・
で、津山をぬけた途端に この快晴↑↑↑(@@)
みなさま、安全運転で今年を乗り切りましょ〜!!!
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幕末トラベラー Vol.25
武市半平太《武市瑞山》 1829〜1865
土佐国吹井村(現高知市仁井田)に生まれ25歳で高知城下に道場を開き120余名を門弟にもち、これが後の【土佐勤王党】の母体となります。27歳で江戸に剣術留学し江戸三大道場の一つ桃井道場の塾頭にまでなり土佐でのカリスマ性は更に高まります。【千葉道場(塾頭坂本龍馬)・斉藤道場(塾頭桂小五郎)で三大道場】
時勢は揺れ動き、各地で志士達が脱藩し攘夷活動が盛り上がるなか半平太は[一藩勤王]という思想をもち国許で1861年に【土佐勤王党】を結成し盟主として尊王攘夷活動を行い一時は藩政の主導権を握ることになります。
しかし、8月18日の政変で各地での攘夷派への弾圧が始まり、裏で那須信吾・岡田以蔵らに暗殺を指令していたことが明るみにでると土佐勤王党は一挙に投獄され次々に斬首刑となります。党首半平太はこの時上士に格上げされており斬首ではなく切腹を命じられ、当時誰も成し得なかった三文字割腹の法で見事に切腹し立会いの板垣退助・後藤象二郎が「見事!」と賞賛したといわれています。
《写真は高知県須崎市浦ノ内 武市瑞山の像》
《下の写真は武市半平太が切腹した地。高知市ひろめ市場の傍》